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邇波 彌母里の兄弟、明国彦(長脛彦)の子で、海 阿知の孫、乎の子、大野 大樹が大野氏を名乗り、その子が有名な小野 妹子です。
大樹に妹が居り、小島子と言う美しい娘が、倭 敏(敏達天皇の妃)大君の妻の1人にされます。
大樹は妹と近親相姦の関係に有り、妻と為った後に生まれた子に倭 敏大君は、自分の子では無いと主張し激怒し殺害し様とします。
騒ぎを聞きつけた婦人(稚綾媛)が、倭 敏大君を諌め許させ子を大樹に返します。小野 妹子の実名は、大野 毛人と言います。
宇麻志摩治=浦嶼氏
倭 得玉―浦嶼 弟彦―金―坂合―草香
草香の姉妹 間子は、倭 王済の妻、子女等は 興、広、関です。
広は、倭王 武(応神帝)の妻、
*関は倭王 継(継体帝)の妻です。
*関(目子媛=メノコ・・女の子の意味 エドム語)
倭王の二人は、伯済の息子で扶餘王族に入婿しました。
異母兄が傀儡王として即位しますが、危険人物と判断され合議政治の実質的な王、邇波 彌母里から暗殺指令が出ます。未遂に終わり逆に館に立て籠り火矢で焼き討ちに合います。 彌母里の兄弟、明国彦は怒り、倭 武は反撃され苦境に立たされます。
物 目は、倭 武を支援し邇波 明国彦を暗殺して、明国彦配下の精鋭を父坂合が組織したスキタイの矢の部隊で壊滅させた功績で香具山の管理者と為ります。
浦嶼 弟彦―金―坂合―物 目 (物部氏 遠祖)
東谷山から天香具山へは、鹿乗の船着き場から、犠牲の鹿(花鹿)を乗せて向かいます。
忌 子萬呂は、645年に倭 建の即位式の為、三野後国の香具山に神幣賦課。
神宝(鏡、玉、鉾、楯、木幣、麻)調達氏族。天之香具山は、字の通り天の神に香を具える山で、神が香を嗅ぐ山でも有ります(創世記8章20~21節)。
頂上を切り開いて、祖先の上陸した地を見て(360度のパノラマ。天の神(ヤハウエ)に感謝して鹿の犠牲(寒羊を持ち込みましたが、草を食い尽くす為、鹿にされます)を捧げる山だったのです。祭壇は、切石が使えず、天香具山の土から煉瓦を作り【天香具山の土で平瓮ヒラカ(白瓷)】積み上げた物です(出エジプト20章24~25節)
戦勝祈願の際にも、同じ行為をしました。
紀記には、天香語山命が、高尾張(御春山)の対岸、高倉山*(天香具山)に降臨して往来したと言う。
*愛岐三山は、一ノ倉、二ノ倉、三ノ倉と呼ばれて居り物部氏と関連が有ります。
東谷山の傍らの高倉山は別です。
御春山(現東谷山)には、磐座多数。井戸の水位は、伊勢湾潮位に関係して居ると伝承存在。天之香具山に対して此方は地神を祀ります。
尾張國風土記逸文には、建岡君(邇波 彦。天香山坐櫛真智命神)が美濃國の花鹿山(天香具山)に登頂し、賢樹(榊)の枝で縵カズラを作り『吾の縵が落ちたところに神あり』(ト事占兆)と、言って投げ、縵の落ちた方向に、地神を祀る場所(御嶽ウタキ祭祀施設)として居ります。
其れが由来となって縵の里と言うと、有り蔓木(葛城)邑と蔓木山ですが、扶餘王族が来たのを邇波彦が見て迎えに出たのが4月故に御春山(春日山)と呼ばれます。春日部の発音は粕壁の意味合いです。
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